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コピペ病?ー現実の教育自体がコピペ教育なのでは?
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作成日時 : 2008/07/20 21:29
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何とも嘆かわしい時代になったものだ、とため息をつきたくなるようなネット上のニュースに出会った。これは、モラルの問題だろうか?モラルというより、何か知的活動における基本的なものの欠如のように見える。
コピペとは、コピー&ペーストの略で、ペーストとは画面上の文字や図形などのデータをある場所から別の場所へ転写することである。
それが問題になっているのは、大学生のレポートが、自分で本を読み考えて書くのではなく、そのテーマに関するサイトやブログ上の記事を、コピーして切り貼りし、自分のレポートとして提出することが横行しているかららしい。
実は、私自身、学生時代には何ともけしからんことをした。例えば、私が友人の国文学や西洋文学のレポートを書く代りに、医学部の友人に生物や自然科学系のレポートを書いてもらうのである。
おかげで、文学関係ではかなりの数のレポートを書いた。教養課程である。何でこんな勉強を今さらさせられているのかという反発もあった。むろん、専門課程に進んでからは、そんなことはあり得ない。
専門課程に進んだとたん、毎日きちんと出席するものだから、「◯◯、最近は学校に来ているじゃないか」などと皮肉を言われたことがある。むろん、一切無視だ。「お前らみたいに怠け者じゃねえからな。文学の勉強で忙しかったんだ。馬鹿が」というのが私の立場である。同級生では、YやHを除いて、文学的に何かを語りあえる人間はいなかった。
そんな状態だから、例えば現在の自分にとってまったく興味の持てない授業など、コピペ大いに結構と私は考える。ただし、すべてその調子で、大学時代に、知的にはまったく無収穫で過ごした、などというのは、これはまた別の問題であり、論外だ。
知的探求ということで言えば、大学時代ほど恵まれた時代はない。時間は有り余るほどあり、資料も山のようにそろっている。この状況を活用しないのは、目の前に最高のフランス料理が並んでいるのに、そっぽを向いてスナック菓子をほおばっているようなものだ。高校までの勉強などというのは、このフランス料理を食するための、ナイフやフォークの使い方、礼儀作法の練習のようなもので、この時になって料理を食さなければ、基本的にはまったく無駄になってしまう。
コピペ大いに結構ということの前提として、とことん考え、資料を読む知的活動が別にあり、そのための時間節約のためということが、当然想定されている。大学の唯一の存在価値は、そんな知的活動が可能な時間と空間を可能にするところにある、とさえ断言できるのではないか。社会に出たとたん、そんな時間や空間は永遠に失われる。これはもう厳然とした事実である。
もし、コペピだけで大学を手際よく卒業し、知的にはまったく無収穫で卒業していく学生がいるとしたら、それは、物心ついて以来高校卒業までの間に、学ぶということの楽しみを知らずに来てしまった、というようなことが原因ではなかろうか。幼稚園入学前から家庭教師を付けられ、試験の成績のみを目標に、ただただ与えられた問題を強制的に解かされ、それが勉強だと思っている生徒もいる。
練習問題を解くのではなく、本を読み、自ら考えることを求められたとたん、何をどうしていいのか分からなくなりコピペに走る、というのでは、コピペへの逃避であって、コピペの積極的活用ではない。それこそ本当に、切り貼り、継ぎはぎの、自分なりの論理の見通しや整理さえない、がらくたレポートになってしまうだろう。そしてそれは、高校卒業までの勉強のし方の犠牲者でもある、とも言えるのではないか。彼には、隠された正解にたどり着くことだけが思考であり、正解はない、自分なりの考えをまとめよなどと言われたら、悲しいかな、もうパニックになってしまうのだろう。
私が驚いたのは、それが小学生にまで広がっている、というニュースだった。おやおや、この国の教育はどうなっているのだろうか。
【
大学生から小学生まで 「ネットでコピペ病」蔓延
7月20日12時25分配信 J-CASTニュース
ネットでコピペ(コピー&ペーストの略)と言えば、大学生のレポートが話題になっている。ところが、なんと小学生の読書感想文にまでコピペが広がりつつあるというのだ。はたして、防ぎ手があるのか。
(中略)
「自由に使える読書感想文〜読書感想文をさっさと片付けて、夏休みをエンジョイしよう!! 」
キーワードでネット検索すると、こんな衝撃的なサイトが出てくる。このサイトでは、小中学生を対象に「パクリ・コピペOK」という感想文の見本がズラリと並ぶ。】
いやはや、いかにネット時代とはいえ、これではもう世も末だ。だが、それも教育の成果かもしれないと考えると、何とも複雑な気持ちになってしまう。いったい、自分の感じたことを、好きなように書きなさい、などという教師の建前、その欺瞞性などは、小学校高学年にもなれば見抜くものだ。授業中、自分の感じ方ではなく、先生が暗に求めている正解を見つける、それが優等生の発想の仕方になる。さらに、中学高校にもなると、そんな欺瞞にも疲れて、授業中は何も言わなくなるのだ。これが、日本の教室の現実である。
感想文を書くことではなく、書く過程でいろいろに考え、自分の感じ方を見つめること自体に意味があるのだが、そしてそれが子供たちを成長させるのだが、忙し過ぎる日本の教育現場では、そんな視点で読書感想文が指導されることはあるまい。かてて加えて、夏休みと言えども、塾があって、本を読むのはむろん遊ぶ暇すらないとなれば、コピペに逃避するのも無理からぬ話なのだろう。果ては、感想文があるから読書が嫌いになった、などという本末転倒まで起きてしまう。
小学生の動き一つをとってみても、現代という社会の奇怪さが見えてくる。その一方で、さらに小学生を追い詰めかねない、いい加減な学力論議。やれやれとため息をついているのは、私だけだろうか。例えば、現在模索されている教育方法が、ゆとり教育批判に授業時間増と、教育哲学を欠いた、生徒の頭をその転写先とするコピペ的教育のさらなる強化らしいのだ。応用力の不足が指摘されていたのに、出てくるのがこれでは、いったい何を考えているのだろうか。何とも不可解なことである。
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