アカバナー通信

アクセスカウンタ

zoom RSS 喪失と絶望、そして拒絶、決別

<<   作成日時 : 2019/03/29 09:24   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0

画像 喪失と決別を歌った詩を2題紹介しよう。20代の私にとっては、どちらも心の奥深くまで染め上げてしまう世界だった。ある心の状態に深く浸ることで、はじめて解きほぐされる生き難さがある。私にとって詩とは、時にそのような魂のゆりかごだった。そして、おそらく詩人もまた、自己という他者を解きほぐすためにこそ、詩を書くのである。


    永 遠
          ランボー・金子光晴訳

   とうとう見つかったよ。
  なにがさ? 永遠というもの。
  没陽(いりひ)といっしょに、
  去(い)ってしまった海のことだ。

   みつめている魂よ。
  炎の中の昼と
  一物ももたぬ夜との
  告白をしようではないか。

   人間らしい祈願や、
  ありふれた衝動で、
  たちまち、われを忘れて
  君は、どこかへ飛び去る……。

   夢にも、希望などではない。
  よろこびからでもない。
  忍耐づよい勉学……。
  だが、天罰は、覿面(てきめん)だ。

   一すじの情熱から、
  繻子(しゅす)の燠火(おきび)は
  ”あっ、とうとう”とも言わずに、
  燃えつきて、消えてゆくのだ。

   とうとうみつかったよ。
  なにがさ? 永遠というもの。
  没陽といっしょに、
  去ってしまった海のことだ。
    (角川書店『ランボー詩集』より)


 静かだが強烈な憤怒と深い絶望、激甚な喪失感と絶対的拒絶。ランボーの心の旋律は、そのまま天上までも響き渡っていく音楽のようだ。教師になったばかりの私は、この詩を思い浮かべながら、夕暮れの石垣の海岸通りをさまよい、石垣の、透き通った悲しみに染まる海を見つめていた。


    Enfance finie
              三好達治

  海の遠くに島が……、雨に椿の花が堕ちた。鳥籠に春が、春が鳥の
  ゐない鳥籠に。

     約束はみんな壊れたね。

     海には雲が、ね、雲には地球が、映つてゐるね。

     空には階段があるね。

  今日記憶の旗が落ちて、大きな川のやうに、私は人と訣れよう。床
  に私の足跡が、足跡に微かな塵が……、ああ哀れな私よ。

     僕は、さあ僕よ、僕は遠い旅に出ようね。
               (『測量船』より 「青空文庫」)


 深い喪失と哀しみ。東洋の詩人は、澄んだ秋風のように切ない旋律を奏でる。ランボーとは異なり、見過ごしかねないほど穏やかな絶望。怒りではなく、まるで哀しみのようなかたちの。

 言葉を意味として扱うのではなく、心が奏でるメロディーとして聞いてほしい。絵を見るとき、この赤にはどういう意味があるかとか、その黄色が何を表現しているかとか、そんな余計なことを考えるだろうか。具象画なら、ある程度そのような見方にも応じてくれるかもしれないが、抽象画だとまるでお手上げだろう。

 日々の生活では、言葉は多くの場合意味として扱われ、伝達の手段とされている。しかし、詩においては、例えば色彩のハーモニーが画家の心を表現するように、言葉という存在が格段に広く扱われる。言葉もまた、響きや色合い、匂いや手触りさえ有しているからこそ、それが可能なのだ。母、ママ、おかあさん、おっかあ、マミー、アンマー、意味は同じでも、それぞれがまるで違う色合い、響きを持ち、それぞれに違うイメージを持つことは書くまでもあるまい。

 画家が様々な色彩を取り合わせることでより美しい世界を作り出し、心を表現するように、そのような言葉の持つ風合いを感じ取り、緻密に組み合わせることで、詩人もまた自分自身の世界を表現するのだ。すると、意味を辿ろうとすることは、詩に向かう方法としてはまるで見当違いなことになる。作者は、作者自身の心、その揺らぎをこそ受け取ってほしいからだ。

 かつて高校教師をしていた時、職業高校や学力の低い新設校、そして進学校と赴任した経験がある。私が驚いたのは、学力と詩に対する感受性は反比例することだった。これは本当に驚きだった。職業高校の生徒たちが、感覚で一瞬にして作者の心を感じ取るのに対し、進学校の生徒たちは、意味を辿ろうとしてお手上げ状態だったのだ。

 詩人は、言葉を音楽のように響かせ、画家のように組み合わせ、きらめかせる。そうすることによってしか、心の色合いを表現することはできないからだ。

   とうとう見つかったよ。
  なにがさ? 永遠というもの。
  没陽(いりひ)といっしょに、
  去(い)ってしまった海のことだ。

  --------------

  海の遠くに島が……、雨に椿の花が堕ちた。鳥籠に春が、春が鳥の
  ゐない鳥籠に。

 詩を解説することのどうしようもない徒労感。作者が、自身の心を、これ以上ない言葉の取り合わせで、直接的に読者に響かせようとしている。そうである以上、遠く離れた音叉が共鳴するように、その震えを心で直接受け取る以外の方法など、あろうはずはないのだ。詩人は、普通には説明できないからこそ、詩で表現するのである。

 国語教師などというものは、そんな詩の持つ力を殺いでしまう人たちだ。詩を、解説という詩の代用品、まがい物にすり替える詐欺師だ。無論私自身、そんな自分のありようを苦々しく思い、嫌悪しながら日々を生きていた。と書いても、全国津々浦々の国語教師の、ほんの一握りしか理解するまい。

 ところで、詩を読んでも何も響いてこない場合はどうする、という疑問を持つ人がいるだろうか。何も響いてこないということは、あなたが今現在はその詩を必要としていない、というだけのことに過ぎない。そして、ずっと必要としないことこそが望ましいのだ。

 そもそも、ランボーや三縁達治の世界を理解できるというのは、心に重苦しいしこりを抱えていることに過ぎない。つまり心の状態としては、はるかに不健康なのだ。詩を読みふけることを、何か高尚なことであるかのように言いふらす国語教師の駄法螺など、全く馬鹿げている。


テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 1
なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
喪失と絶望、そして拒絶、決別 アカバナー通信/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる